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<「奇皇后」を語る上で欠かせない「貢女(コンニョ)」とは?>

「奇皇后」の主人公であるキ・ヤン(スンニャン)は、貢女(コンニョ)出身。貢女の存在は、高麗時代を舞台にした「奇皇后」以外でもうかがうことができ、李氏朝鮮時代の「大王世宗」や「王と妃」「インス大妃」などによく登場します。

高麗から元(モンゴル)への貢女は、元が高麗に対して行った第一次侵攻(1231年)をきっかけに始まったとか。ただし元代以前にも行われていたようで、公式ガイドには「最も古い記録は5世紀」と書かれています。元に侵攻され、首都である開城(ケソン)を陥落された高麗は、講和を求めました。元はこれに対し、大量の馬や毛皮、そして王族・官吏・貢女など500名を要求します。

この後も貢女は献上され続け、高麗時代の終わり頃までに50回ほど繰り返されており、1273年には140名もの女性が元に渡りました。彼女たちは容姿や体格で選別され、宮殿で女官になったり、花街に送られたりしたそうです。高麗の支配者層もこうした状況には胸を痛めていたらしく(自分の娘を差し出さなければならないかもしれないですしね)、ワン・ユ(忠恵王)の父である忠粛王の時代(1335年)に貢女廃止の建議書が起こされます。

しかし、両者の王朝が元から明に、高麗から朝鮮に変わっても、貢女は続きました。人々は娘を奪われまいと幼いうちから結婚させるようになったため、12歳以下の女子の結婚が禁じられたほどでした。「妖婦 張禧嬪」の中でも、「高麗時代に女性を元に送らなければならかったのが朝鮮の早婚の原因」といったセリフが出てきます。

「大王世宗」では、両班の娘が貢女になるまでが描かれています。明に渡ったダヨンのモデルは、明の永楽帝の側室となった麗妃(ヨビ)。さらに彼女の妹も宣徳帝の側室・恭慎(コンシン)夫人にのぼりました。そんなわけで皇帝の寵妃となった彼女たちの兄弟であるハン・ファクは母国で大出世。そして彼の娘があのインス大妃です。

皇帝に愛されて皇子までもうけた奇皇后のケースも同様で、高麗の実家である奇氏一族は親元派の筆頭として絶大なる権力を持ちました。(そのため恭愍王にうとましがられて粛清→奇皇后が恭愍王を恨むという流れに)

ちなみに奇皇后の以前にも元の皇帝に寵愛された高麗出身の女性がいます。仁宗アユルバルワダは高麗人がお好きだったのか、政治的理由があったのかはわかりませんが、答里麻失里皇后キム氏、伯顔忽篤皇后ワン氏、英妃(達麻忽都)がいました。ですが彼女たちは世継ぎの母となったわけでもなく、奇皇后ほど目立つ存在ではありません。

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