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<「奇皇后」 あらすじ 補足 実在したワン・ゴ(瀋陽王)の生涯>

先日の記事でご紹介したように、瀋陽王は実在した地位で、ワン・ゴ(王暠)という人も存在していました。今回はこのワン・ゴについてもう少し詳しくまとめたいと思います。

ワン・ゴの生年は不明。高麗の忠烈王の孫として生まれました。忠烈王は元から降嫁した斉国大長公主(忽都鲁揭里迷失)との間に忠宣王を、高麗人の貞信府主王氏との間に江陽公滋(正確には王滋がフルネームで、江陽公に封じられていた)をもうけました。この江陽公滋の息子が、延安君ワン・ゴ(モンゴル名はオルジェイト)です。

ちなみに忠烈王が先に結婚していたのは貞信府主王氏のほうで、おそらく長男にあたるのも江陽公滋。しかし元の世祖クビライのお姫さまである斉国大長公主を格上に扱わないわけにはいかず、王位を継いだのも彼女の息子である忠宣王でした。そして斉国大長公主と貞信府主王氏の間には期待どおり(?)新旧王妃のバトルがあったもようです。

瀋陽王系図

上の系図をご覧ください。元にとどまっていた忠宣王は、高麗王と瀋陽王の二つの立場を持っていました。1313年、息子の忠粛王に高麗王の座を与えたのは理解できますが、寵愛していた甥のワン・ゴに高麗の世子の座を与えます。これに伴い、ワン・ゴはトルガク(禿魯花≒人質)としてケシク(怯薛=元皇帝の親衛隊)で勤務。この間に元とのつながりを強めました。

前述のように、この頃の高麗王の正妃は、元の皇族から降嫁した女性たちでした。傍系王族ワン・ゴの夫人も元の皇族出身の女性。忠宣王が甥のワン・ゴに世子(後に取り消し)や瀋陽王の座を与えるほどに可愛がったのは、自分の妃とワン・ゴの夫人が血縁者だったからと書かれている本もあります。また、息子・忠粛王への権力集中を防ぐためという見方もあります。

ワン・ゴが手にした高麗世子の座は、その後、忠粛王の息子である忠恵王(「奇皇后」のワン・ユのモデル)に移り、そのかわりに忠宣王は1316年、瀋陽王の座をワン・ゴに譲ります。ワン・ゴは1333年まで元の朝廷で仕え、1339年~1344年にも元にいたようです。

このように、傍系王族とはいえ一度は世子の座を獲得し、元にコネもあったワン・ゴは、忠粛王の時代にも、忠恵王の時代にも、王位をあからさまに狙っていたとか。たとえば、忠粛王が国内にいないときは国王のような権力を発揮。忠粛王が崩御した後は忠恵王にスムーズに王位が継承されたわけではなく、元の権力者バヤン将軍(「奇皇后」のペガンのモデル)は忠恵王ではなくワン・ゴを支援していたこともありました。武力で奪おうとしたこともあるようです。

1344年に忠恵王が亡くなり、その息子の忠穆王が即位してもワン・ゴは王位を狙いつづけました。長きにわたる執念ですね!しかし、忠恵王の妃で忠穆王の生母である徳寧公主(亦憐真班)によって妨害され、翌1345年にこの世を去りました。それから9年経った1354年、ワン・ゴの孫が瀋陽王の座につき、彼もまた王位継承権を主張しています。

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